DIRECTION

情熱という思想、プライドという技術

わたしたちのディレクションは、机上では生まれません。それは現場の光の下で、カメラの背後で、編集室の暗闇の中で磨かれてきたものです

映像ディレクターは、ただ「演出する人」ではありません。
撮影現場ではカメラを担ぎ、ライティングを指揮し、ポストプロダクションでは編集ソフトを前に、最後の1カットまで自ら手を動かします。

演出と技術。その両輪を携え、イメージの構築からフィニッシュまでを一気通貫で担う。それがDRAWING AND MANUALのディレクターたちの在り方です。

理論だけでは人は動かせない。
技術だけでは心は揺れない。
そのあいだを行き来しながら、表現の精度と体温のバランスを取り続けるのが、“演出する者”としてのわたしたちの矜持です。

映像とは、ひとつの世界をつくること。
その世界に立ち上がる光と音と時間を、誰よりも理解し、誰よりも制御できる存在として──わたしたちは、ディレクターであり、演出家であり、撮影監督であり、編集者であり続けます。しかし、それは孤高の存在でありたいわけではありません。伴走するクルーはパートナーとして大切にし、なにより「仲間」であるのと同時に様々な難問を一緒に乗り越える「戦友」でもあります。。

それは“分業”ではなく、“統合”されたクリエイション。
わたしたちの映像には、情熱という思想とプライドという技術の両方の血液が流れているのです。


生み出す喜びと分かち合う喜び

わたしたちが描くストーリーボードは、単なる設計図ではありません。
構図やカット割りを指示する機能を超えて、
そこにはすでに「空気の色」や「時間のリズム」が描かれています。

それは、まるで絵画のように──
一枚一枚に情景が息づき、登場人物の感情が静かに滲み出し、まだ始まっていない映像の中に、すでに“物語の気配”が立ち上がっているのです。

この「絵としてのストーリーボード」は、私たちにとって映像演出の出発点であり、同時に、音楽の萌芽点でもあります。

なぜなら、わたしたちは音楽を“あとから添えるもの”とは考えていません。
音楽は、映像の内側に最初から流れているべきもの。
それは感情の骨格であり、光の余韻であり、言葉にならなかった部分の声です。

だからこそ、コンポーザーと語り合い、演奏家と呼吸を合わせ、その映像作品のためだけに、ひとつの音楽を“発明”します。

絵が物語を導き、物語が音を呼び、音が空気を変える。
この循環のすべてを指揮するのが、わたしたちのディレクションです。

音と映像が互いに導き合いながら、まだ誰も見たことのない感情の風景をつくりあげる。
そこには、構成や手法を超えた「体験」としての映像が生まれます。

絵を描くように撮り、音を編むように演出する。

自分で生み出すことと一緒に生み出すことに喜びを感じて創作をする。
それが、わたしたちのディレクションの本質です。


レガシーも、イノベーションも。アナログもデジタルも。

創作が好きだから、という気持ちを大切にする

わたしたちのディレクションは、実写の枠に収まりません。
レンズを通して世界を切り取る一方で、ピクセルの奥に広がる仮想の世界にも自在に踏み込みます。

アニメーション、モーショングラフィックス、CGI、VFX──
そこには時間と空間を再構築する自由があり、現実では届かないイメージの深層に、演出という手つきで触れることができます。

さらには、ポスターやロゴマークといったグラフィックデザインの世界にも目を向けます。限られた一枚に宿すべき、思想と余白と精度。
そこには映像とは異なる速度で流れるアートディレクションで「伝えるという営み」があります。

そして、展覧会という場をディレクションすることも、わたしたちの表現の重要なフィールドのひとつです。
空間を設計し、順路を編み、光と映像と音の重なりで物語を立体化する──
そこには、五感すべてで感じさせるための演出が必要です。

DRAWING AND MANUALが手がけるディレクションは、映像であれ、紙であれ、空間であれ、すべてが「体験の設計」であり「気持ちのキャッチボール」です。

ジャンルの境界は、表現の限界ではなく、可能性の輪郭にすぎません。
どの領域においても、わたしたちは“感じさせる”ための構造を組み立て、そこに確かな美意識と技術を注ぎ込みます。

表現が変わっても、わたしたちのまなざしは変わらない。古のやり方も最新のやり方も大切にして創作をする。アナログという言葉もデジタルという言葉も使わずに創作をする。先人の知恵に敬意を払い、新しい考え方を惜しみなく投入する。
それが、DRAWING AND MANUALディレクションという名の横断力です。

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